(雑記)麒麟がくるの雑感

昔、作家の大佛次郎さんについて書いた記憶があります。
大佛次郎さんの生前の住まいと、私の当時の仮住まいが近いとか、そんな――どうでもいい内容だった気がします。

その大佛次郎さんが遺した小説のひとつに「織田信長-炎の柱-」という題のものがあり、
当たり前ですが、明智光秀についても書かれています。

少し前、京都の丸善に寄ったときのことを書くと、
明智光秀を扱った作家さんの特集が組まれており、色々な作家さんが並んでいました。
その中に、大佛次郎さんの著書も、なぜか仕組まれていました。

大佛次郎さんの上記著書は、光秀は出てくるには出てくるが、あまり深堀りされていない。
焦点が当たっているのは(著者本人もあとがきで述べておられるが)題通り、織田信長である。
また、他の並んでいた著書も、題に信長を連想させるものが多かった。
もしかしたら、光秀が主役のものよりその数は多かったかもしれない。
それだけ織田信長は物語の主役になりやすい要素をふんだんに抱えているということでしょうが、
そもそも信長を書くとなると、光秀のやってしまったことについて、程度の結論を出すことは、避けては通れないことだと思います。

そしてそれは、今年の大河ドラマでも、必ず避けては通れないはずでして。
それを、どう描くのか、楽しみにしている人も、多いはずです。
大河ドラマのはじまりは、光秀の青年期から始まります。
しかし、光秀の青年期には資料が少なく、その行蔵はあまり明らかではありません。
詳らかになり始めるのは永禄12年程からで、ここから信長公記に名前が出始めます。
この時期は足利義昭と織田信長に両属していた時期であり、長良川の戦いで一族郎党が布衣になった時から数えて12年程が経っており、
仮に長良川の戦いのときに(出生不明なので)30歳だとすると、この時ですでに42歳です。

もはや、人として変わりようがない歳だともいえます。
大河ドラマでは、光秀は陽性のキャラクターとして取り扱われているように思えます。
野望があり、正義に溢れ、才気に満ちている。
そんな光秀が、ほとんどの人が知る生真面目な、それこそ秀吉と鮮やかなほどに比較されるほど、
陰影ばかりが濃い光秀になったのは、どうしてなのか。
その答えは、今年の暮れまでおあずけのようです。

最後に、大佛次郎さんの著書から文章を引用して終わります。

「双六の振り出しに戻った。また国中、蜂の巣を突いたような騒ぎになるわ」
たしかにそれと信じられた。
信長がいたので諸国が順に平定されて、ようやく世の中が戦国から抜け出るものと見えたのである。
新しい時代が来るように見えた。
それを今夜で御破算にした。
彼(明智弥平次、通称左馬之助)には舅だが、日向守光秀と言う一人の男がいて世間を過去に引戻したのである。
明らかに過去への後退であった。