(雑記)趙氏孤児

最近、本を――特に小説を、読まなくなっています。
忙しいからかもしれません。

さて、表題の「趙氏孤児」について書いてみようと思います。
読みは「ちょうしこじ」と読みます。
趙は、キングダムという漫画に出てくる「李牧」という将軍の出身国といえば、はいはいと頷く方は多いのではないでしょうか。
けれども、この趙氏孤児の趙は、まだ厳密には、国名ではありません。人の名前です。

つまり訳すと、趙という(国の元となる)人の孤児の話ということになりますが、
この機会がなければ、趙という国は、もしかすれば、中国の戦国期に存在しなかったでしょう。
先の将軍、李牧も世に姿を現すことは、なかったかもしれません。

この逸話を記した歴史書は、ふたつあります。
「史記」と「春秋左氏伝」です。
「趙氏孤児」という雑劇は、前者の史記を元にしています。
さて、内容を書く前に、登場人物を記してみようとおもいます。

(趙氏孤児のウィキペディアから抜粋 謝謝) 

屠岸賈(とがんこ) – 晋の霊公の大将で、ライバルの趙盾をにくんでいる。
趙朔(ちょうさく) – 趙盾の子、晋の霊公の駙馬。屠岸賈に自殺させられる。
公主 – 趙朔の妻。
程嬰(ていえい)- かつて趙朔に恩義を受けた医者。
韓厥(かんけつ)- 晋の下将軍。屠岸賈の配下だが、屠を嫌っている。
公孫杵臼(こうそんしょきゅう)- かつて趙盾の同僚として霊公に仕えていた老人。
程勃(ていぼつ)- 程嬰の子(実際には趙氏孤児)。
魏絳(ぎこう)- 晋の上卿。

いくつか補足します。
晋の霊公とは、この物語の当代である景公の前々代の君主のことを指します。
屠岸賈(とがんこ)、は役職は司寇と記されている。この時代、司寇は閣員ではありません。閣外の身です。
趙盾(ちょうとん)は景公の時代にはすでに引退してして、霊公(次代の成公の時も)の時には晋の六卿(閣員)のトップ、
正卿である趙盾からすれば、屠岸賈がライバルというのは、ちょっと片腹痛いし侘びしくもあるのではないかと思いますが、
趙盾が当時横暴だった霊公を弑し奉ったために側近であった屠氏は出世街道から外れ、そのために趙盾を憎んでいたようです。
とにもかくにも、この屠岸賈がこの物語の「悪役」なのだろうと思います。

趙朔(ちょうさく)は、霊公の駙馬とあります。
駙馬とは、皇女(公主)の配偶者のことを指します。
余談ですが、三国志という別の物語に、夏侯駙馬という人物が出てきます。正式には、夏侯楙といいます。
彼は清河長公主(曹操の娘で母は劉夫人)を娶っているので駙馬と称されるわけです。

趙朔は、温雅な人であり、晋楚が争った「邲の戦い」の時には下軍の将(閣員)でした。
趙朔には、親戚がいました。趙同(ちょうどう)と趙括(ちょうかつ)といいます。
この両人は、趙盾の異母兄弟で、趙盾は異母に恩義があったため、その恩返しとして趙同と趙括、どちらかに家を継がせたいと考えていたようで、
ただし、二人とも残念なことに、それに足る人物ではなかったため、結局は実子である趙朔が家を継ぎました。
しかし、父である趙盾に目をかけてもらっていたという驕りから、二人は驕慢を改めませんでした。

程嬰(ていえい)と公孫杵臼(こうそんしょきゅう)は、どのような来歴だったのでしょうか。
趙朔の大夫・家臣だったか、食客だったか。
ある意味では、この物語の「主役」なのですが、典医であったかどうかまでは、定かではありません。
ただ、そんな来歴などはどうでもよくなるくらいに、二人は作中のなかで「好漢」を示してくれます。

韓厥(かんけつ)については、当時は下軍の将(なのは趙朔)ではなくて、司馬(軍の監察官)でした。
抜擢したのは趙盾です。その経緯から趙氏と昵懇の仲になりますが、しかし阿諛からは遠い人で、直涼の人として有名です。
趙家を再興させた立役者は、この韓厥でした。

魏絳(ぎこう)については、実はちょっと年代がちがいます。
魏絳がはじめて抜擢されたのは紀元前573年です。韓厥と同じ、司馬からのスタートでした。
景公の在位が紀元前600年から紀元前581年なので、この時期、魏氏が上卿なはずがありません。
ちなみに、実際の当時の上卿は士会です。

長くなってきたので本題を書きますと、

「権力に興味をもった屠岸賈は、在位中の景公が威権を拡大したいという気持ちを巧みにくみとり、
邲の戦いにおいて重傷を負って伏せている、莫大な領地と財産をもつ趙朔に狙いをつけた。
温雅であり忠良で通った趙朔には、特に敵がいなかったが唯一、父が遺した家格の歪みから生じた、同じ氏である趙同・趙括と軋轢があり、
また趙盾は霊公を弑し奉った罪過があったため、屠岸賈はその罪を裁くかたちで、趙朔を追い詰めた。
逃げ切れないと察した趙朔は、懐妊している自身の妻・公主を後宮へ逃したものの、
公主以外の婦人・子供はもとより、家臣団も屠岸賈の手によって皆、殺害されてしまった。

後日、公主の出産を嗅ぎつけた屠岸賈の追跡を、いかに後宮にいても躱しきれないと察した公主は、
趙家の血筋をひく、後の趙武(程勃)を送り出した。
それを引き受けた、唯一残った家臣団である程嬰と公孫杵臼は、やはり逃げ切れないだろうと判断し、
ある秘計を思いつく。

そしてまた後日、趙朔と交誼のあった韓厥の家の門を叩いた者がいた。程嬰である。
程嬰は、韓厥にこういった。

「趙朔の遺児の居場所を知っている。教えてほしければ、報酬をよこせ」

韓厥は純良であるため、その取引を嫌って程嬰に道理を説いたが、聞き入れられない。
程嬰は、韓厥と取引がならないと知ると、次はなんと、屠岸賈の家へ向かった。
それを知った韓厥は怒り、程嬰を殺そうとするが、間に合わない。
程嬰は、屠岸賈に遺児の居場所を伝えた。

翌朝、屠岸賈が兵を率いて都を出た。
程嬰の教える山中を捜索するためである。捜索には時間がかからなかった。
山中に、簡素な山小屋があり、その中に公孫杵臼と遺児は、いた。
喉元に剣先を突きつけられた公孫杵臼は、屠岸賈の後ろで憮然としている程嬰に呪いの言葉を吐き、息絶えた。
遺児も、その小さな体を剣で突き通された。

その夜、韓厥の邸宅の門を叩く者がいた。程嬰である。
韓厥はその名を聞くだけで吐き気を催す男の訪来をきいて、
一瞥しただけで棄市を命じたのも束の間、つづく側近の声を聞いて、おのずと、飛ぶように、回廊を走った。

庭先に、程嬰が座っている。膝の上には、赤子がいた。
その赤子こそ、趙武(程勃)であった。

月日は流れ、趙武は成人した。韓厥のはからいによって、貴族にも復帰できた。
不倶戴天の恨みは、自身が晴らす前に、天が雪いでくれた。
晴れ着姿の趙武の前に、程嬰が座っている。

程嬰は、趙武に、こう告げた。

「お別れの時がきたようです」

と。程嬰は、黄泉にいる趙朔と公孫杵臼に、使命を完遂したことを報告するため、自死した。
趙武は血のつながっていない程嬰のために、身内同然の3年間喪に服し、
また、趙家の廟に程嬰を祀った。

後年、正卿となった趙武は、武を尊ばず、謙譲を美徳とし、犬猿の仲であった楚をはじめとして、
周辺諸国との講和という大業を成したことから、最高の諡号「文」を諡され、趙文子と呼ばれる。