_古典廃止論について
古文・漢文というものが、はたして要るのか、要らないのか。
この種の論争は、私が思っていたよりもずっと長く、またしぶとく繰り返されているらしい。
近年のSNS的な火花に限った話ではなく、少なくとも漢文教育をめぐっては、明治三十年前後の「廃止論」を対象とする研究があるほどには、近代の学校教育そのものと並走してきた古い問いでもあるらしい。
こういう話題に触れたとき、私の心癖はたいてい決まっている。
いつ、誰が、なぜ、どのように、そのようなことを言い始めたのか、を追究し考えるのである。
これはなにもたいそうなことではなくて、多くの場合は答えなどない自己満足な結論に陥るのであるが、歴史という学問にかつて逃げ、またそこで多少なりとも呼吸を覚えた人間として、物事をその場の是非だけで裁断することに、どうにもこうにも落ち着きの悪さを覚えるのであるから仕方がないのだ。
さて、今宵は古典不要論という、毎年どこかで火のつく小さな焚き火を、少し離れたところから眺めてみようと思う。
_不要論は、何を不要としているのか
まず、分けて考えてみたい。
古典不要論と一口に言っても、それが何を不要としているのかは、ひとつではないはずで、
受験科目としての古文・漢文が不要なのか、
高校教育の必修としての古典が不要なのか、
現代社会で生きるための知識として不要なのか、
あるいは単に、自分が得意ではないから不要だと言っているのか。
この四つは似ているようで、勿論まったく違う。
受験制度への不満であれば、配点や出題形式の問題として論じるべきだし、授業への不満であれば、教材や教授法、あるいは感受性の問題で、現代社会との接続を問うのであれば、そもそも「実用」とは何かを考えなければならない。そして好悪の問題であれば、それは感情の問題として、論などと大それたことをいわず、出来ればローカルで話していてもらいたい。
ところで、私は思う。
「古典が嫌い」と言うことは、なんら恥ずべきことではないということを。
しかし、「自分にとって不要である」を、「社会にとって不要である」へ拡張するのであれば、話は変わるよ、ということを。
_受験科目としての古典
受験科目としての古文・漢文については、まず事実を置いておいたほうがよいかと思うので、少し調べてみた。
大学入学共通テストにおいて、国語は現在も古文・漢文を含んでいることは周知の事実で、令和八年度の出題方法等では、『国語』は「現代の国語」及び「言語文化」を出題範囲とし、近代以降の文章及び古典、すなわち古文・漢文を出題する、とされている。さらに配点も、近代以降の文章が三問で百十点、古典が二問で九十点、古文・漢文がそれぞれ四十五点と明示されている。
したがって、少なくとも共通テストを受ける者にとって、「古典は入試に関係ない」とは言えない。
ただし、ここで注意したいのは、だから古典は必要だ、という短絡ではない。
入試に出るから必要である、という論法は、たいへん分かりやすい。しかし、それは同時に、入試から外れれば不要になる、ということでもある。
古典の価値を受験制度だけに預けることは、古典の側にとっても、あまり幸福なことではない。
受験科目としての古文・漢文をどう扱うかは、あくまで制度設計の問題である。配点は妥当か。出題形式は適切か。文法知識に偏りすぎていないか。読解という名の暗号解読に堕していないか。
ここは論じてよいだろうし、むしろ論じるべきであろう。
だが、それは「古典そのものが不要である」という話とは、別に扱うべきだと思うので――。
_実用主義の顔をした好悪
さて、古典不要論の背後には、しばしば「もっと実用的なことを教えるべきだ」という主張が置かれる。
その気持ちは、分からなくもない。
Excelが使えたほうが、なにかと便利である。
プログラミングや情報リテラシーが必要であることも、疑いようがない。
現代社会において、そうした知識や技術は明らかに力を持つ。
AIが跋扈し始めた昨今、そのITスキルさえ、いつまで実用の王座に座っていられるのかという、別の不要論が生まれつつあることは、ここではさておくが。
ここで問うべきは、「実用」という言葉の射程である。
実用とは、ただ直近の就職や事務作業に役立つものだけを指すのだろうか。
文化財、出版、教育、観光、演劇、宗教、地域史、法制史、言葉遣い、接客における距離の取り方。これらは古典という小さなジャンルから派生しうる職能の一例だが、そうした領域さえ、不要というのだろうか。
社会は、広い。
思わぬところで人は、その社会を形成している。
もし実用的な教育を掲げるのであれば、まず教育過程で社会に存在する職能の広さそのものを教えるべきであるし、古典に連なる仕事も古典的素養に支えられた仕事も現実に存在しているのであるから、それらを「自分には見えない」という理由で不要と叫ぶのは、それは実用主義というより視野の狭さを実用の名で飾っているだけに過ぎない。
_学習指導要領は古典を捨てたのか
近年の高校国語をめぐっては、調べた限りでは「平成三十年告示の高等学校学習指導要領」が大きな節目となっている。
文部科学省の解説では、高等学校学習指導要領は平成三十年三月三十日に公示され、令和四年四月一日以降に高等学校へ入学した生徒から、年次進行で段階的に適用されるものとされている。
この改訂によって、高校国語には共通必履修科目として「現代の国語」と「言語文化」が置かれ、さらに選択科目として「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」が置かれることになった。文部科学省の解説でも、「現代の国語」と「言語文化」の二科目をすべての高校生が履修する共通必履修科目として設定する、と説明されている。
ここだけを見ると、たしかに古典は従来の姿から配置を変えられている。
しかし、それをもって、文科省が古典を不要と判断した、と読むのはやや粗い。(そんな思考をする人が存在するのか知らないが)
むしろ見えるのは、古典を暗記や翻訳だけの対象から、言語文化として再配置しようとする意図ではないだろうか。
実際、文部科学省の解説では、「言語文化」は古典を含む我が国の言語文化への理解と関係が深い科目として説明されており、「古典探究」は古典の意義や価値について探究し、生涯にわたって古典に親しめるようにするための科目とされている。
つまり、古典は捨てられたというより、古典だけで自立していた場所から、言語文化というやや大きな棚に置き直された、と見るほうが自然である。その置き直しが成功しているかどうかは、また別の問題ではあるけれど。
ただ、少なくとも制度上、「古典は不要である」と公式に判断されたわけではないといえるだろう。
_それでも古典嫌いは実在する
古典を必要だと語る側も、耳の痛い事実から目を逸らしてはならない。
古典が嫌いな生徒は、少なくないだろう。
とある研究では、国立教育政策研究所の平成十七年度教育課程実施状況調査を踏まえ、「古文は好きだ」に否定的な回答をした生徒が七二・七%、「漢文は好きだ」に否定的な回答をした生徒が七一・二%であったことを示している。
この数字を前にして、「近頃の若い者は教養がない」と言って済ませるのは、あまりに残酷な話で、
嫌いになるには、嫌いになるだけの経験がある、ということを教育者は理解してもいいのかもしれない。
文法だけを詰められた。品詞分解だけをさせられた。現代語訳を丸暗記させられた。試験で点を取るための暗号表としてしか扱われなかった。そうした授業の記憶が積もれば、古典が嫌い――というより興味が持てないのも、ある意味で自然である。
古典嫌いを生んでいるのは、古典そのものなのか。
それとも、古典の入口に置かれている教師、教材、試験、制度なのか。
ここを分けないまま「古典は不要だ」と言うのも、「古典は尊い」と言うのも、どちらも少々危うい。
_それで結局、古典は役に立つのか
この項は特に私の感想に過ぎないが、
役に立つ、と言えば嘘になる場面があると思っているし、
役に立たない、と言えば雑になる場面がある、とも思っている。
こと、精神面の話に限って。
自明であるが、今日の食と水に飢えている人に、古典は充足感を与えられないだろう。
借金に追われ、身内に病人を抱え、直近明日への生活に追われている人に、古典の効用を説くことは酷だし、孔子であれ兼好であれ、困窮のただ中にいる人間へ教養の不足を咎めるように差し出されるなら、それは知ではなくて暴力に近い。
世界は、聖人ばかりで満ちてはいないのだ。
必要論の側も、この点を忘れてはならない。
古典は、人を救うことが必ずあるが、ありとあらゆる万人を救うとは限らない。
自分がそれに救われたからといって、他者にも同じ救済を強いてよいわけではない。
美術も、音楽も、礼法も、歴史も、詩も、多くの場合、生命維持に直接の必要はない。
極論すれば、美とは無駄である。
だが、その無駄を持つことによって、人間はしばしば人間らしく振る舞う。
古典とは、そのような無駄のひとつである、と私は考えている。
そして私は、その無駄を、わりあい大切なものだと思っているたちである。
私にとって古典とは、節度であり、礼節である。
ここでいう礼節とは、堅苦しい作法のことではない。
古いものをありがたがる趣味のことでもない。
自分がいま使っている言葉が、自分ひとりで作ったものではないと知ること。
自分が立っている場所が、自分ひとりの時間で成り立っているわけではないと知ること。
そうした認識の足場のことである。
文部科学省の解説でも、「我が国の言語文化」は、歴史の中で創造され継承されてきた言語そのもの、文化としての言語、文化的な言語生活、そして古代から現代までの各時代に表現され受容されてきた多様な言語芸術や芸能を広く指すものとして説明されている。
この説明は、いささか役所の言葉ではある。
しかし、言っていること自体は悪くない。
言葉は、ただの道具ではない。
それは履歴であり、関係であり、ときには傷であり、救いにもなる。
現代文と古典も、完全に断絶したものではない。
漱石も鷗外も、東野圭吾や京極夏彦も、やがては古典になる運命にある。
この私が書いている怪文章も、非常に高い確率で電子の海に消えうるだろうが、万が一残ってしまえば、いつか古典と呼ばれる運命にあるのだ。
古典を読むとは、過去の人間が何を考え、何に怒り、何を恐れ、何を美しいと感じたのかを覗くことでもある。
そこには立派な言葉もあれば、どうしようもない言葉もある。
高尚なものも、低俗なものもある。
人間は昔から人間であった、という当たり前の事実が、妙な手触りをもって現れる。
その手触りを愉しいと思える気分を、失いたくないものであるが――。
_結び
古典不要論は、最終的には「好きか嫌いか」の問題にかなり近いところへ戻ってくるのではないか、と思う。
この話に限ったことではないが、要不要をSNS等で論じている、じつのところさほど変化を望んでいない、空気だけを体感したい層に限っては。
古典が嫌いだ。
堅苦しいものが嫌いだ。
読めないものを読まされるのが嫌いだ。
それはそれでよいのだ。
一方で、礼儀のない言葉遣いが不快だ。
過去の文脈を知らずに物事を断じる態度は浅慮浅薄だ。
実用という言葉で、実用の外にあるものを簡単に棄てる姿勢は無知蒙昧だ。
これもまた、それでよい。
問題は、それぞれの好悪を社会全体の正義にまで膨らませようとするところにある。
好き嫌いは好き嫌いのまま置いていてよいと思う。
高尚な旗を掲げなくとも、「私はそれが嫌いだ」と言えば足りる場合が、世の中には多い。
古典は、万人の生活にただちに必要なものではない。
しかし、社会から簡単に消してよいほど軽いものでもない。
あるものは、ある。ないものは、ない。
人はそれぞれ、持っているものと持っていないものを抱えて生きている。
知識も、教養も、金も、身分も、経験も、感性も、その点では似たようなものだし、持っていることが幸福を保証するわけでもないし、持たないことが不幸を決定するわけでもないはずである。
ただ、古典というものが、長い時間のなかで残ってきた言葉の束であることは確かである。
その束を開くかどうかは、人それぞれでよい。
だが、開かない自由を守るために、束そのものを燃やす必要はない。
私はそう思っている。
参考出典:
文部科学省『高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説 国語編』。
独立行政法人大学入試センター『令和8年度大学入学共通テストの出題教科・科目の出題方法等』。
大谷維吹「手段としての古典学習の検討に向けて:古典学習現状に関する調査と2つの視座をもとに」。
石毛慎一「明治期の漢文教育廃止論について:明治30年前後を中心として」。
