高麗橋の歴史
はじめに
難波津に 咲くやこの花 冬ごもり
今は春べと 咲くやこの花
王仁の作と伝えられ、『古今和歌集』仮名序にも引かれる古歌です。
大阪の古い名を語るとき、難波津ほど繰り返し呼び戻されてきた場所は、そう多くありません。
ただし、その港を現代の地図の一点へ重ねることはできません。
発掘調査と古地形の研究は今も続いており、上町台地の北端から大川南岸にかけて、港、倉庫、宮殿、役所が時代ごとに位置と役割を変えながら展開した姿が、少しずつ明らかになっています。
高麗橋をそのまま難波津と断定することは慎みたいが…けれども、古代の難波津から中世の渡辺津、近世の高麗橋へと、水と陸の結節点が北船場の周辺で受け継がれてきたことは、この土地を読むうえで外せないことは確かなのです。
当地に小さな酒肆を構える者として、古を飾るのではなく、いま足もとに残るものから、その長い時間をたどってみたいと思います。
水から生まれた大阪
今からおよそ二万年前、海面は現在より低く、大阪湾や瀬戸内海の多くは陸地でした。
気候が温暖になって縄文海進が進むと、上町台地は海へ突き出す半島のような姿となり、
その東側には河内湾と呼ばれる内海が広がります。
やがて淀川と旧大和川が運ぶ土砂によって、河内湾は河内潟、河内湖へと姿を変え、さらに低地が埋まり、
現在の大阪平野が形づくられていきました。
大阪は、はじめから確固とした陸の都市だったわけではありません。
海岸線と川筋が動き、そのたびに人の住む場所、舟の着く場所、道の通る場所も変わってきた都市です。
その水は豊かな交通路である一方、洪水をもたらす脅威でもありました。
『日本書紀』は、仁徳天皇が難波堀江を開き、茨田堤を築いたと伝えています。
これをそのまま実証された土木工事の記録として読むことはできませんが、古い時代から大阪では、
土地を治めることと水を制することが一つの物語として結びついていたのでしょう。
<大阪府の水域変遷>

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難波津から渡辺津へ
五世紀以降、上町台地とその周辺には倉庫群や工房、さまざまな施設が置かれ、古代都市へつながる開発が進みました。
その外交と流通を支えたのが難波津です。
難波津は、瀬戸内海から大陸・朝鮮半島へ開かれた王権の港であり、人、品物、技術、情報が行き交う窓口でした。
大化元年(六四五)、孝徳天皇は都を難波長柄豊碕宮へ移したとされます。
現在の難波宮跡は上町台地北端にあり、発掘調査によって、飛鳥時代の前期難波宮と奈良時代の後期難波宮が重なって存在したことが明らかになっています。宮殿と港は、陸と海から国を組み立てようとした古代難波の両輪でした。
しかし、難波津の実体を一つの船着場へ限定することは難しく、時代とともに港の機能や賑わいの中心は移っていきます。
平安時代から中世にかけては、現在の天満橋付近から北浜の南岸にかけて、渡辺津と呼ばれる港が栄えました。
渡辺津は淀川水運の中継地であり、四天王寺、住吉、熊野へ向かう人々の出発点でもありました。
古代の港が消えたというより、川筋と地形の変化に応じて、別の名と姿を得たと見る方が自然――だと考えられています。
<前期難波宮模型(大阪歴史博物館)>

高麗橋の名と、橋の始まり
時代は下り、豊臣秀吉が大坂城と城下町を築くころ、東横堀川は城の西惣構堀として整えられました。
高麗橋も、その城下町建設の過程で架けられたとみられ、慶長九年(一六〇四)の銘をもつ鉄製の擬宝珠が、この橋のものとして大阪城天守閣に伝えられています。
高麗橋という名の由来には、いまも定説がありません。
古代に朝鮮半島からの使節を迎えた施設「高麗館」にちなむという説、豊臣期に朝鮮との通商に関わる人々が集まったことに由来するという説などが知られています。
名の響きは古代を思わせますが、現在の橋名へ至る道筋は、なお複数の伝承の間にあります。
橋は、大坂城と船場を結ぶ場所にありました。
軍事のために掘られた堀へ架かりながら、戦乱が遠のくにつれて、城へ出入りする門の性格よりも、人と商いを渡す橋としての役割を強めていきます。ここに、高麗橋の長い性格がよく表れています。権力の境界として生まれ、やがて都市の往来を支える場所へ変わっていったのです。
大坂の起点となった橋
江戸時代の大坂には数多くの橋がありましたが、幕府が直接管理した公儀橋は十二橋に限られていました。
高麗橋はその一つであり、西詰には町奉行所の制札場が置かれました。
幕府からの触書が掲げられる場所であったことは、この橋が単なる通路ではなく、人の集まる情報の中心でもあったことを示しています。
高麗橋筋には呉服、両替をはじめとする大店が集まり、川沿いでは舟から荷が上げ下ろしされました。
水上交通と陸上交通、商いと行政が、橋の両岸で重なっていたのです。
さらに高麗橋は、東海道五十七次の大坂側の終点となり、京街道、中国街道、紀州街道など諸方への距離を測る起点でもありました。
明治九年(一八七六)には里程元標が置かれ、西日本の主要道路はここから測られます。
江戸の日本橋が東の距離を測る起点であったように、大坂では高麗橋が都市の尺度を担っていました。
橋であると同時に、掲示板であり、商業地であり、道の始まりでもあったのです。
<1910年代の高麗橋>

くろがね橋から、現在へ
明治三年(一八七〇)、木造だった高麗橋は、大阪で最初の鉄橋へ架け替えられました。
近代の素材で生まれ変わった橋は「くろがね橋」とも呼ばれ、新しい時代の大阪を象徴する存在となります。
昭和四年(一九二九)には、現在の鉄筋コンクリート製アーチ橋が完成しました。欄干の擬宝珠と、西詰にあった櫓屋敷を思わせる親柱は、近代橋の中に古い橋の記憶を残すための意匠です。
川の上にはやがて高速道路が通り、橋から見える景色は大きく変わりました。
それでも高麗橋は、いまも同じ東横堀川を渡り、街の名と道の記憶をつないでいます。
難波津、渡辺津、高麗橋。
それらを一本の直線的な系譜として結ぶことはできません。
時代ごとに海岸線も川筋も都市の中心も変わり、それぞれは別の場所、別の仕組みとして生まれています。
けれど、上町台地の北端と北船場の周辺が、水と陸、人と物、外の世界と大阪を結ぶ場所として繰り返し選ばれてきたことは確かでしょう。
弊店は、その高麗橋の名をもつ町にあります。
酒や珈琲を供する小さな店にとって、歴史は店を大きく見せるための飾りではありません。
目の前の橋、暗渠の下を流れる川、道の向こうへ続いた街道を知ることで、いまいる場所を少しだけ深く味わうためのものです。
確かでないことを確かな顔で語らず、残されたものを受け取り、いまの言葉で次へ渡す。
この頁もまた、そのようなものでありたいと思います。
2025/02/20 著
2026/08/05 追記

参考資料
・大阪市「大阪市の歴史―タイムトリップ20,000年」
・大阪市「大阪市の歴史―タイムトリップ20,000年(飛鳥・奈良時代以降)」
・大阪市教育委員会「難波宮跡附法円坂遺跡」発掘調査・用語解説
・大阪市建設局「高麗橋(こうらいばし)」
・大阪市建設局「高麗橋(こうらいばし)―橋の紹介」
・大阪市「里程元標跡」
・大阪市立図書館・市史編纂所『新修大阪市史』第2巻(「難波津から渡辺津へ」)
・佐藤隆「古代難波地域における開発の諸様相―難波津および難波京の再検討―」大阪歴史博物館研究紀要17
・佐藤隆「古代難波に営まれた特異なる〈海の都〉」大阪歴史博物館研究紀要21
・佐藤隆「古代の難波堀江南岸における“諸宮”の実像」大阪歴史博物館研究紀要22
・大阪市此花区「区名の由来/難波津の歌」
参考出典:
「大阪市文化財協会―難波宮インフォメーション」
https://www.occpa.or.jp/ikou/naniwa_info/ikou_03.html
「大阪府史〈第3巻〉」
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%E5%8F%B2%E3%80%88%E7%AC%AC3%E5%B7%BB%E3%80%89%E4%B8%AD%E4%B8%96%E7%B7%A8-1979%E5%B9%B4-%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C/dp/B000J8C1M8
「水都大阪の歴史」
https://www.suito-osaka.jp/history/history_2/
「大阪市―大阪陸地の変遷」
https://www.city.osaka.lg.jp/sumiyoshi/cmsfiles/contents/0000078/78996/1-5-2.pdf
「ドゥイツ・キエルト―1910年代の大阪高麗橋」
https://www.oldphotojapan.com/photos/632/koraibashi-jp
「市民見学会の記録―高麗橋」
https://www.cvv.jp/CVV2/kengakukai/2016_8th(naniwa%20no%20meikyo)(2017.1.16)/image/(2)korai_bashi/korai_bashi.html#Anchor-40772
「大阪NOREN百年―浪花百景「高麗橋」」
https://www.osaka-noren100.jp/engraving/vol20.html
「日本の古い町並み―大阪市」
http://home.h09.itscom.net/oh-net/osakasi.html
難波津に 咲くやこの花 冬ごもり
今は春べと 咲くやこの花
王仁の作と伝えられ、『古今和歌集』仮名序にも引かれる古歌です。
大阪の古い名を語るとき、難波津ほど繰り返し呼び戻されてきた場所は、そう多くありません。
ただし、その港を現代の地図の一点へ重ねることはできません。
発掘調査と古地形の研究は今も続いており、上町台地の北端から大川南岸にかけて、港、倉庫、宮殿、役所が時代ごとに位置と役割を変えながら展開した姿が、少しずつ明らかになっています。
高麗橋をそのまま難波津と断定することは慎みたいが…けれども、古代の難波津から中世の渡辺津、近世の高麗橋へと、水と陸の結節点が北船場の周辺で受け継がれてきたことは、この土地を読むうえで外せないことは確かなのです。
当地に小さな酒肆を構える者として、古を飾るのではなく、いま足もとに残るものから、その長い時間をたどってみたいと思います。
水から生まれた大阪
今からおよそ二万年前、海面は現在より低く、大阪湾や瀬戸内海の多くは陸地でした。
気候が温暖になって縄文海進が進むと、上町台地は海へ突き出す半島のような姿となり、
その東側には河内湾と呼ばれる内海が広がります。
やがて淀川と旧大和川が運ぶ土砂によって、河内湾は河内潟、河内湖へと姿を変え、さらに低地が埋まり、
現在の大阪平野が形づくられていきました。
大阪は、はじめから確固とした陸の都市だったわけではありません。
海岸線と川筋が動き、そのたびに人の住む場所、舟の着く場所、道の通る場所も変わってきた都市です。
その水は豊かな交通路である一方、洪水をもたらす脅威でもありました。
『日本書紀』は、仁徳天皇が難波堀江を開き、茨田堤を築いたと伝えています。
これをそのまま実証された土木工事の記録として読むことはできませんが、古い時代から大阪では、
土地を治めることと水を制することが一つの物語として結びついていたのでしょう。
<大阪府の水域変遷>

難波津から渡辺津へ
五世紀以降、上町台地とその周辺には倉庫群や工房、さまざまな施設が置かれ、古代都市へつながる開発が進みました。
その外交と流通を支えたのが難波津です。
難波津は、瀬戸内海から大陸・朝鮮半島へ開かれた王権の港であり、人、品物、技術、情報が行き交う窓口でした。
大化元年(六四五)、孝徳天皇は都を難波長柄豊碕宮へ移したとされます。
現在の難波宮跡は上町台地北端にあり、発掘調査によって、飛鳥時代の前期難波宮と奈良時代の後期難波宮が重なって存在したことが明らかになっています。宮殿と港は、陸と海から国を組み立てようとした古代難波の両輪でした。
しかし、難波津の実体を一つの船着場へ限定することは難しく、時代とともに港の機能や賑わいの中心は移っていきます。
平安時代から中世にかけては、現在の天満橋付近から北浜の南岸にかけて、渡辺津と呼ばれる港が栄えました。
渡辺津は淀川水運の中継地であり、四天王寺、住吉、熊野へ向かう人々の出発点でもありました。
古代の港が消えたというより、川筋と地形の変化に応じて、別の名と姿を得たと見る方が自然――だと考えられています。
<前期難波宮模型(大阪歴史博物館)>

高麗橋の名と、橋の始まり
時代は下り、豊臣秀吉が大坂城と城下町を築くころ、東横堀川は城の西惣構堀として整えられました。
高麗橋も、その城下町建設の過程で架けられたとみられ、慶長九年(一六〇四)の銘をもつ鉄製の擬宝珠が、この橋のものとして大阪城天守閣に伝えられています。
高麗橋という名の由来には、いまも定説がありません。
古代に朝鮮半島からの使節を迎えた施設「高麗館」にちなむという説、豊臣期に朝鮮との通商に関わる人々が集まったことに由来するという説などが知られています。
名の響きは古代を思わせますが、現在の橋名へ至る道筋は、なお複数の伝承の間にあります。
橋は、大坂城と船場を結ぶ場所にありました。
軍事のために掘られた堀へ架かりながら、戦乱が遠のくにつれて、城へ出入りする門の性格よりも、人と商いを渡す橋としての役割を強めていきます。ここに、高麗橋の長い性格がよく表れています。権力の境界として生まれ、やがて都市の往来を支える場所へ変わっていったのです。
大坂の起点となった橋
江戸時代の大坂には数多くの橋がありましたが、幕府が直接管理した公儀橋は十二橋に限られていました。
高麗橋はその一つであり、西詰には町奉行所の制札場が置かれました。
幕府からの触書が掲げられる場所であったことは、この橋が単なる通路ではなく、人の集まる情報の中心でもあったことを示しています。
高麗橋筋には呉服、両替をはじめとする大店が集まり、川沿いでは舟から荷が上げ下ろしされました。
水上交通と陸上交通、商いと行政が、橋の両岸で重なっていたのです。
さらに高麗橋は、東海道五十七次の大坂側の終点となり、京街道、中国街道、紀州街道など諸方への距離を測る起点でもありました。
明治九年(一八七六)には里程元標が置かれ、西日本の主要道路はここから測られます。
江戸の日本橋が東の距離を測る起点であったように、大坂では高麗橋が都市の尺度を担っていました。
橋であると同時に、掲示板であり、商業地であり、道の始まりでもあったのです。
<1910年代の高麗橋>

くろがね橋から、現在へ
明治三年(一八七〇)、木造だった高麗橋は、大阪で最初の鉄橋へ架け替えられました。
近代の素材で生まれ変わった橋は「くろがね橋」とも呼ばれ、新しい時代の大阪を象徴する存在となります。
昭和四年(一九二九)には、現在の鉄筋コンクリート製アーチ橋が完成しました。欄干の擬宝珠と、西詰にあった櫓屋敷を思わせる親柱は、近代橋の中に古い橋の記憶を残すための意匠です。
川の上にはやがて高速道路が通り、橋から見える景色は大きく変わりました。
それでも高麗橋は、いまも同じ東横堀川を渡り、街の名と道の記憶をつないでいます。
難波津、渡辺津、高麗橋。
それらを一本の直線的な系譜として結ぶことはできません。
時代ごとに海岸線も川筋も都市の中心も変わり、それぞれは別の場所、別の仕組みとして生まれています。
けれど、上町台地の北端と北船場の周辺が、水と陸、人と物、外の世界と大阪を結ぶ場所として繰り返し選ばれてきたことは確かでしょう。
弊店は、その高麗橋の名をもつ町にあります。
酒や珈琲を供する小さな店にとって、歴史は店を大きく見せるための飾りではありません。
目の前の橋、暗渠の下を流れる川、道の向こうへ続いた街道を知ることで、いまいる場所を少しだけ深く味わうためのものです。
確かでないことを確かな顔で語らず、残されたものを受け取り、いまの言葉で次へ渡す。
この頁もまた、そのようなものでありたいと思います。
2025/02/20 著
2026/08/05 追記

参考資料
・大阪市「大阪市の歴史―タイムトリップ20,000年」
・大阪市「大阪市の歴史―タイムトリップ20,000年(飛鳥・奈良時代以降)」
・大阪市教育委員会「難波宮跡附法円坂遺跡」発掘調査・用語解説
・大阪市建設局「高麗橋(こうらいばし)」
・大阪市建設局「高麗橋(こうらいばし)―橋の紹介」
・大阪市「里程元標跡」
・大阪市立図書館・市史編纂所『新修大阪市史』第2巻(「難波津から渡辺津へ」)
・佐藤隆「古代難波地域における開発の諸様相―難波津および難波京の再検討―」大阪歴史博物館研究紀要17
・佐藤隆「古代難波に営まれた特異なる〈海の都〉」大阪歴史博物館研究紀要21
・佐藤隆「古代の難波堀江南岸における“諸宮”の実像」大阪歴史博物館研究紀要22
・大阪市此花区「区名の由来/難波津の歌」
参考出典:
「大阪市文化財協会―難波宮インフォメーション」
https://www.occpa.or.jp/ikou/naniwa_info/ikou_03.html
「大阪府史〈第3巻〉」
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%E5%8F%B2%E3%80%88%E7%AC%AC3%E5%B7%BB%E3%80%89%E4%B8%AD%E4%B8%96%E7%B7%A8-1979%E5%B9%B4-%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C/dp/B000J8C1M8
「水都大阪の歴史」
https://www.suito-osaka.jp/history/history_2/
「大阪市―大阪陸地の変遷」
https://www.city.osaka.lg.jp/sumiyoshi/cmsfiles/contents/0000078/78996/1-5-2.pdf
「ドゥイツ・キエルト―1910年代の大阪高麗橋」
https://www.oldphotojapan.com/photos/632/koraibashi-jp
「市民見学会の記録―高麗橋」
https://www.cvv.jp/CVV2/kengakukai/2016_8th(naniwa%20no%20meikyo)(2017.1.16)/image/(2)korai_bashi/korai_bashi.html#Anchor-40772
「大阪NOREN百年―浪花百景「高麗橋」」
https://www.osaka-noren100.jp/engraving/vol20.html
「日本の古い町並み―大阪市」
http://home.h09.itscom.net/oh-net/osakasi.html
