(雑記)物事の起源を考える癖というもの

桜の季節が、過ぎ去ろうとしています。
そんなわけで、記事に起こすには、やや遅い時期ではありますが、
結局のところ何かを考え、文字に起こすことは、私にとってはたいへん気散じになるので、
つらつらと、今日もまた無用なことを書こうとおもいます。

我が国、日本には、年間を通して色々な行事があります。
今月は四月ですが、過去を振り返ると、正月、節分、桃の節句と、すでにいくつも経てきたことになります。

というわけで、正月とはなにか。節分とはなにか――という『なぜ』に行き当たる機会は多いはずなのですが、
なぜと感じ、それを疎ましく思って居ても立っても居られなくなるような心事こそが、知識のすすめのようなものだと思っていますが、
それはさておき、桜を見て、なぜと首を傾げる人は、多くないはずです。
綺麗だな、と感じ入るのが一般的であり、正常な心事です。

花弁の色、名称の由来、花見の起源、そんなことまで疑問を差し挟むようでは、
誰のことかとまでは言いませんが、とても人生、生きづらいだろうなと思う次第です。

桜の文字としての起源を、考えてみます。
画像は桜の画像の篆書体ですが、ものによっては、もう少し右側が難解になっているはずです。
標準辞書で「さくら」と変換すると、櫻という字がでてくることからもわかりますが、
桜と櫻は、もとを辿れば同じもので、読み方もどちらも「ロウ」で共通しています。
そしてロウとは、建物のことです。
言うまでもなく、楼閣という言葉がまだ残っているくらいですから、建物なのだろうということはわかります。

なぜ、建物なのでしょうか。
建物に、桜の木がよく使われたからでしょうか。
これは、私程度では時間をかけないと、典拠を求めることは難しそうです。

桜は、漢字のルーツである中国の古典には、多く出てきません。
中国では、桜の花とサクランボが区別されておらず、桜はいわゆる梅や牡丹、菊という中国の名花ほど、浸透しなかったからです。

白居易の詩にある
”亦知る 官舎は吾が宅に非ず、且く山桜を刪んで院を満たして栽える”
をみるに、
唐代には自宅に桜を植える習慣があったようですが、あわせて奈良・飛鳥時代に日本に花見の文化が生じていることから、
流行りは、この辺りなのだろうなあ・・・と考えられなくはありません。

余談ですが、櫻の字の右編「ロウ」は
女性の髪の毛を高く巻き上げた形、と辞書にあります。
もしかしたら、昔々の桜の第一印象は、そのようなものだったのかもしれませんが、
いま桜の木をみても、そんな印象は覚えないでしょう。

世の中、わからないことばかりですね。