(雑記)ビデオゲームからの卒業
少し前の記事でも書きましたが、私はゲーム世代だと思っています。
スーパーファミコン、任天堂64、プレイステーション1-2、ゲームキューブ。
そして、パソコン。
振り返って考えれば、ソフトを買った覚えはほとんどないですが、ハードは、たくさん買いました。
正確には、買ってもらった、ではありますが。
そんな私でも、世間的な尺度で見れば、ゲーマーであったといえるはずです。
一番のめりこんだハードは、パソコンでした。
要はネットゲームですが、十八年前ぐらいから、触っていたという記憶があります。
中学生です。
学年通して、流行っていました。
さて、十八年という、ほぼ半生に近い時間を、いかな手狭にやるのが好きな私でも、
ずっと同じタイトルを触り続けるわけにはいきません。
けれどもこれは、頻度は無論何でも下がるものの、飽きがきたから、というわけではないのです。
単に、そのゲームを運営している会社が、なんらかの理由でもって、
提供サービスを終えてしまうから、に過ぎません。
物理的に、出来なくなってしまうのです。
これは、買い切りのゲームには、絶対にありえない現象です。
そして、十八年という歳月は、その現象を、幾度も突きつけてくるに十分な長さなのです。
今回記事を書こうと思い立った理由は、それでした。
数日前、その頃の知り合いに伝えられて、知りました。
文章中ではいちいちそのタイトルは出しませんが、これで多かれ少なかれ、私が関わった「ネットゲーム」は全てなくなった換算になります。
実のところ、特に感慨深い気持ちになった、というわけではありません。
そもそも、そういう気持ちであるのは、なにも今回がはじめてではないからです。
「またか」或いは「やっとか」ぐらいの気持ちです
無味乾燥な野郎だなと思われるかもしれないので、そうではないのだという釈明を書いて、この記事は終わりにしようと思います。
私の、ゲームにおける記憶は、3つに分けられます。
前期・中期・後期です。
この中で、前・中期は内実は一緒です。触れ合うグループであったり、個人が変わるだけです。
何度も集散と離合を繰り返し、数多の人と出会い、いつしか後期が訪れます。
後期は、どんなゲームであっても――私にとって、グループというものは、すでに存在しえない時期です。
どこにも、属さなくなる。そこからが、後期のはじまりです。
さて、なぜでしょうか。
一人で何でも出来るようになるからか。
集団を探し、或いは構成し、そういった手段を取る過程が煩わしくなるからか。
以前の仲間たちと、現在の仲間を見比べてしまうからか。
長ずるにつれて、ゲーム内のコミュニティに割く時間がとれなくなるからか。
理由はまだきっとあるでしょうが、恐らく、その全てに少なからずの要因があると思います。
まあ要は、別れを惜しむ仲間という存在は、すでにもう誰一人、残っていないということなのです。
(探せば、一人くらいはいたかもしれませんけれど)
私は、ゲームをそれ自体の思い入れはなく、一種の社交ツールとしてみているのだという証左だと思います。
ポケベルやガラケーがなくなっても、涙を流す人は、多くはなかったと思います。
過去になり、古典になり、記憶になるものは、なにもゲームだけではありません。
去っていった仲間もいれば、残った仲間もいます。
そういう意味では、良いゲームたちであったと、私は胸を張って言えます。
今までありがとうございました。