(雑記)映画「君たちはどう生きるか」を見終えて

※底の浅い凡夫の書く与太感想です。
真に受けないでください。


映画館での映画鑑賞、じつに25年ぶりのことでした。
たった数時間前のことです。

まず、最初に断っておきます。
たいへんお手数ですが、今回の記事を読まれる数奇な方は、必ずこちらの長い前置きをお読みください。

まず私は、宮崎駿監督の作品のファンではありません。
批判的な立場というわけでは勿論なくて、ただただ怠惰な自分は映画を見に外へ行ったり、あるいは借りにいったり、
剰えサブスクリプションを契約することですら、一人では何も出来ずに面倒面倒と呟くだけの、本当に消極的な存在です。
故に、この記事では技法的なアニメーションの描画についての感想は、述べることができません。

次に、私が今作から感じた印象は、
「戦争を題材にした、日本という国を憂いたメッセージ性の強い作品」
だと思っています。
やや既視感があったことは個人的に拭えませんが、しかしそれが決して短絡的ではないというところが、
まさに今作品を誤解してはならないという、たいへんよい誤算がありましたと感じております。
宮崎駿監督の確たる年齢は存じ上げませんが、日本の長老ともいえる年代層の方々が抱く一貫性のある危機感を、
まさに若い世代へ向けて発信しているものであり、ただし押し付け一辺倒ではなくて、
悔悟と慚愧の念が強く、批判を覚悟して敢えて書くのであれば、どこか血と涙が滲んだ遺書めいたものを感じざるをえませんでした。
そのような啓蒙的な作品を好まない方もおられるかと思いますので、該当される方は私の文章を読むのをお控えください。

そして遅ればせながら形式的なことで申し訳ありませんが、今回の感想は作品内容に多々触れます上、
一度ご覧になった方向けの略記になっております。
ご留意ください。

~感想ここから~

まず全体を通して得た感想は、たいへん素直に見ることができる映画だということです。
ミステリー作品によくありがちな、設定をひとつひとつ覚えておかないと最終的に腑に落ちないといったような、
要は鑑賞中に恣意的に求められる半強制記憶力は、ほぼ必要ないと言って等しく、素直に流れる描写を見ていればよいのだという安心感があると思います。

物語の前半部分における、主人公である少年の継母が屋敷前の石階段から、少年の父が所有する新しい職場(工場)を指差すシーンがあります。
凡夫的な考えであれば、その工場がどこにあるか見てわかるような、或いはどれだけの規模感なのか察することができるように、以後アニメーションの動きがあると思います。
しかしそのような描写はなく、そのままのカットで階段を登っていってしまいます。
つまり、親父の工場の位置や規模感などは、作品構成上なんの意味も持たないということをここで教えてくれていると考えられます。
その白樺派チックな描き方は、目に見えていることだけを考えればよく、また目に見えていることさえ深い意味がないこともあるということを、早々に教えてくれていると思います。

実際に鑑賞する最中、当然湧いて出てくる純粋な作中に対する疑問は、全て登場キャラクターがそれも時間をかけることなく、また速やかに簡潔に答えてくれます。
その説明に後述はほとんどなく、「それはそれ以上でも以下でもないのだ」ということは、鑑賞を終えれば理解できることかと思います。
まさしく「私小説的映画」だと感じました。

ただし、作品の全てが私小説的であるわけではないと思います。
主人公の伸長を描いたのみであると断じれば、当作品の本領を軽んじていると私は思います。
そもそも中盤以降はかなりファンタジーですから、随筆調にも限度があるでしょう。
私がこの作品を戦争を題材にしたメッセージだと読解した理由は、そのファンタジー要素から勝手に解釈したからですが、
私が”そういう”色眼鏡を普段からかけがちであることはかなり考慮すべきではあるものの、いったんそれは抜きにして考えても、やはり何かしらのメッセージが潜んでいると考えたいものです。

物語の根幹であるファンタジー要素。
それは主人公の曽祖父(?)が、そのファンタジー世界を創造した本人であるということ。
そして、曽祖父はそのファンタジー世界の構築を間違えたということ。
また、その失敗を理解し、自身を責めた上で主人公に未来を託そうとしていること。
これがこの作品の主題ではないかと思います。

この主題を踏まえた上で作品を振り返ると、
その曽祖父が考えたファンタジー世界とは実際にどの年代期間を暗示するのか、
アオサギ、ペリカン、セキセイインコ、そして曽祖父とセキセイインコの王は、何を模しているのかなど、
妙に納得感があるのは、きっと私だけではないと考えるのですが、どうなのでしょうか。