(雑記)日本人の根源的な性格

こんばんは。
Coffee&Liquor AseeK店主です。

久方ぶりに、雑記を書こうと思います。
本来は経営に直接関わることをすべき時宜なので、雑記を書いている場合ではないはずなのですが、
実は雑記は、営業にまったく関係がないわけではありません。(言い訳ではありません)
弊店はカウンターは6席しかありませんが、多くの場合カウンターにお座りのお客様は、バーテンダーとの会話をひとつの目的としてご来店されます。敢えて大きな括りでの代名詞を使いましたが、弊店にはバーテンダーは店主の私しかいません。

毎日の話題作りは、営業には欠かせない作業です。
よく業界としていわれることは、出勤するときに町中及び電車内などの広告掲示をよくみて時事を取り入れ、いまではネットニュースでも無論構わないと思いますが、新聞雑誌などを読んで、時勢時世をタイムリーに取り入れていく。そうしてようやく、我々バーテンダーはお客様とすこしは話すことができる領域に、まさしく半歩入ることができる。
こういった界隈の矜持のようなものが、少し探せば別の同職もどこかで記事にしているものが見つかるということは、当然卑小ながら小生としても誇負できることですし、昔からバーテンダーという職種の仕事内容に「会話」が取り入れられていたという証左となると思います。私などはそれに熱中しすぎてお酒をすすめるのを忘れるくらいなので、経営者としてもバーテンダーとしてもまだまだ青いものだと汗顔の至りですが、それはともかく(?)バーテンダーとだけいっていますが、我々より繊細にお客様との距離感の調整を求められる高級ホステスさんなども、この例に漏れないはずです。

ランチの経営を止めてしまったことは、ある種の痛恨事ではあると思いますが、やはり大きなメリットとしては、前述した自分自身へのインプット作業をする時間がおおいに増えたことです。
出退勤はともかく、空いた時間は経営に関する雑務を除けば、娯楽にあてることが多いです。
私にとって、これは幸運なことに――知育的な映像をみたり同様の本を見たりその内容を鉛筆をもって書き取りをしたりすることは、娯楽なのだと教えてくれたのは我が母ですが、要は勉強は私にとって娯楽そのものなので、空いた時間はほぼすべてインプット作業だといっても過言ではありません。
故にこの記事を書くというアウトプット作業も営業に関係するのだ、という言い分なのですが、前置きをこれほど長くするつもりはありませんでした。

しかしながら、表題のことと前述した職人の矜持は、必ずしも全く関係がないこととは言い切れません。
むしろ、その一部をおおきく反映した結果であるとさえ、思っています。
短兵急ではありますが、日本人の根源的な性格とは、私は美意識だとおもっています。
なにかあると私は口癖のようにそういうので、もしかしたら読者の中には(読者が存在するのか怪しいですが――)「ああ、いつものあれか」と感じてくださるかもしれません。

日本人の性格を反映した(とされる)事件は、歴史をみればいくつも例があります。
古くは、蘇我・物部の崇仏論争(なかったらしいですが)や欽明天皇の仏教帰依、大化の改新もそうです。
源平合戦だってそうでしょうし、何北朝の動乱もそうだとおもいます。
関ケ原の図式も、江戸期にあったとされる有名な忠臣蔵も、幕末の彦根藩も、同じ類といえます。
この例だけで見れば、日本人の性格は「刷新主義」、わるく捉えるなら「事勿れ主義」、「大勢主義」ともいえるとおもいます。

しかしながら、それらはすべて上辺だけのことであり、その本流は「美意識」であるとおもいます。
この美意識という感覚は、まさに潜在的な感覚であって、根源的なものだとおもいます。
多少の修養によって培われる感性ではありましょうが、もっと原初の――遺伝子的なことをいっています。
日本人がどこかエクイティに振り切れない、イノベーティブにもなりきれない、過度なイクシードさに如何わしさを覚え、エンターテイメントというオブラートに包まれていてもアウトローをどこか許容できない。
そういう精神性は、この美意識によるものだろうとおもいます。
大陸の影響を享けた天平文化より、我々独自でやっていこうよ国風文化、なのだろうと思います。
ざっくり表現すると、ちょっとこじつけがましいですが。

世界的に見て、この遵法的ともいえる美意識さをもつ民族は、私は東洋史ばかりだったので明言するのは憚られますが、おそらく日本民族だけではないかとおもいます。
なぜなら、日本民族ではない世界の民族たちは、この美意識のうえに、宗教という極めて硬質的で超越的な――思想をもっているからです。
翻ってそう考えれば、日本人はこの行蔵の美意識こそ、宗教だといえるかもしれません。言う必要があるかは別です。

ともかく、バーテンダーが毎日営業前に情報を仕入れ、お客様との会話に備えるのも、もとはといえば美意識なのだと思います。「バーテンダーは教養を広くもつべきである」という感覚は「教養を広くもつ」存在が「美しい」と判断されているからです。営業時間外にお客様のことを第一に考えて自身を律して修養していく姿勢、が美しいと判断できるからです。ただ、教養を広くもてば、お客様が増えて、売上があがる――とは、誰もいいません。
売上をあげるだけなら、技術を磨いてコンペティションに出場し、名を上げるほうが必ず早道です。
誤解をうみそうなので補足しますが、技術の練磨が美意識に関係がないわけではありません。
技術の練磨を、例えば人目のつかぬ開店前か終業後にひっそりと行う。これは、間違いなく美意識からくる行動です。

美意識というものには「美」という定規があって、この規定から外れないことが重要です。
時代という大衆的な美意識に沿うことと、自分自身の矜持としての美意識を天秤にかけ、己が納得できているのであれば、敢えてなにかに対して言挙げするのは、野暮だといえます。
なにが「美」であるか。自分自身に対して、自問自答するだけのことなのかもしれません。

Coffee & Liquor AseeK 店主 敬白