日本は犯罪者に必要なのは更生ではなく罰という考えが根強いという風潮

一日の疲れを癒そうと、ぼんやり動画を探していたときのことである。

私は性格が少し歪んでいるのだろう。動画に限らず、制作物の内容が真っ直ぐ頭へ入ってこなかった場合、その制作物そのものより先に、第三者の評価群――いわゆるレビューを見たくなる傾向がある。

以下は、「罪を犯した人たちの更生に、猫などの愛玩動物を用いることの是非」を問われた――と、勝手に我々が信じている――方々による反応集である。見やすさを優先して名前はすべて省略したが、時系列は崩していない。生のデータをご覧になりたい方は、元動画を参照されたい。


日本は犯罪者に必要なのは更生ではなく罰という考えが根強いから 感情論でWin-Loseになっちまうんだ

ふと思ったんですけど キリスト教って罪を悔い改めれば、神から許しと救いがある(にわか知識)? 対して仏教は罪に許しは無くて、地獄での罰を受けての償いなんですよね。 そういった宗教観の違いが日本が海外より更生より処罰感情が強い原因なのかなって

キリスト教カトリックのはしくれです。 大前提として天地創造の主とイエス・キリストの愛を信じる事。 そして天に召される時までに煉獄(この世とあの世の中間地)で罪を悔い改めれば天国へ行けて、悔い改められなければ地獄行きです。
ただし、同じキリスト教でも宗派があるのでその宗派によって違います。 プロテスタントに煉獄はなく、 正教会は地獄はないが霊魂に罰はあり、 エホバの証人は神様は人類を愛しているから地獄の存在はないとしています。
海外だとキリスト教も日本人が知らない宗派が数え切れない程あって(30年程前の学園で習った宗教学の知識ですが350以上だったかな…)、一概にキリスト教だから云々とは言えませんが、カトリックは仏教で例えると総本山、神道で例えると総本宮に当たる大元になるので1番信者や信徒が多いですし、◯◯さんの考えも一理あると思います。

話が抽象的だし、前提となる基礎知識もってない人間はそれだけ言われてもわからんのよね。 噛み砕いて説明できるものでもないんだろうけど。

そーかー。 なんか、すみません。

誠実に説明しようとすればそうなるのは仕方ない。 ただ、Q.悔い改めれば罪を許され救いがあるの? A.悔い改めれば天国へ行ける。そのためには主(神)のイエス・キリストの愛を(どういうものか知って)信じるのが前提。 という言い方で直接的に質問に答えるのだと不都合があるものなの?

神(主)のイエス・キリストじゃないです。 天地創造の主である神は父で、その父の子であるのがイエス・キリストです。 イエス・キリストは神ではなく、神の子なので。 罪を悔い改めるよりも、父と子の愛を信じる方が重要だという感覚なのでそちらを先に書きました。

入力ミスだ。すまない。 とりあえず、重要な扱いなのは分かっているが、愛を信じるとだけ言われても、その前提知識を持っていない人には何のことだかさっぱりわからないし、聞かれていることから答えたほうがいいんじゃないか、そうできない理由があるのか、ということが言いたかった。

あー、神様とイエス様の愛ってなんぞや?って事ですか?

一つはそういうこと。もう一つは質問に対する回答文の書き方のことね。なにかしら関連する話であるとか、福音書でも読んだことがあるなら反応は違うのかも知れないが、イエス・キリストがいて磔刑にされた、くらいの認識の人が多いのだろうし、愛を信じるとだけ言われても、「何を?」ってなるだけじゃないのってこと。

超簡単説明。ただし宗派や時代ごとの教義によって差異はある
キリスト教:罪を悔い改めれば死後に天国(楽園)へ行ける、かも知れない
神の愛は無限と言う建前上、悔い改めの回数制限は無い
それでも悪人のままだったら地獄に落ちて永遠の責め苦に遭う(リトライ無し)
仏教:罪を悔い改め清貧に過ごせば今まで(前世含む)積み上げた徳が無駄にならず来世に持ち越し可
いずれは涅槃の境地へたどり着ける、かも知れない
悪人のまま死んだら地獄巡りor畜生からのやり直し
どちらも権力者や法には干渉せず、「現世での救い」というものは無い
日本の処罰意識が強いってのは、つまり(いっぺん死んで)出直してこいって事かな

頭の悪い厳罰主義者っていじめていい相手を探しているやべえやつら

「いじめの防止にはいじめ加害者へのヘイトクライム級の復讐が有効であり、それを遂げられない者やそれに反対する者はいじめ加害者と同罪で、仮にそれがいじめ被害者ならいじめ被害者失格」と言われたことを思いだしてしまった……。 過激派ポリコレの騒動から何も学んでないじゃないか。

真のスコットランド人論法か この詭弁、よく使われる割には騙される人が多いからガチだるいんだよなぁ

もしかしたら非国民狩りもその論法だったりして……?


同じ言葉を使って、別の話をしている

ここからは私の感想になる。

読んでいて最初に感じたのは、皆々、同じ話をしているようでいて、実際には、

「刑罰制度は何を目的とするのか」
「宗教における罪と救済とは何か」
「犯罪者に対して抱く感情をどう扱うのか」

という三つの話が、ごちゃっと混ざっていることである。

私はまず、そもそも更生と処罰をWin-Loseで捉える必要があるのかと思う。

受刑者に猫を世話させるのは、別に、

お前の罪は許した。今日から楽しく猫と暮らしてよいぞ。

という話ではないだろう。

おそらくは、刑罰を受けている人間に、責任、継続的な世話、他者への配慮、愛着、そして自分の都合だけでは動かない生き物との関係を経験させ、出所後にもう一度犯罪へ戻る可能性を下げようとする試みである。

この個別の動画に映る制度が、実際にどれほどの効果を上げているかまでは、動画とコメント欄だけからは判断できない。

ただ、一般論として、刑事施設内の動物介在プログラムには、心理状態や対人機能、再犯への影響を調べた研究がすでにあり、一定の可能性は示されている。一方で、研究設計の弱さや対象の偏りも指摘されており、「猫や犬を与えれば更生する」とまで断言できる段階ではない。要するに、有望ではあるが、魔法ではない。

当たり前だが、

犯したことについて責任を取らせる

ことと、

もう一度同じことをしない人間にする

ことは、普通に両立する。

むしろ社会防衛だけを考えても、再犯率を下げられるのであれば、更生は被害者側、一般市民側にとっても利益になる。

法務省も、再犯防止を、犯罪をした人に親切にするためではなく、犯罪の繰り返しを防ぎ、何よりも新たな被害者を生まないための取組として位置づけている。

更生は、必ずしも「犯罪者を幸せにする政策」ではない。

次の被害者を作らないための政策でもある。

したがって、最初のコメントにある、

日本は犯罪者に必要なのは更生ではなく罰という考えが根強いから、感情論でWin-Loseになっちまう

という問題提起には、かなり分かるところがある。

ただし、「日本は」と一括りにするのはいささか粗い。

そして、その下の「キリスト教と仏教の違いではないか」というあたりから、話はいよいよ危うくなってくる。

宗教の話をするなら、せめて教義は分けたい

私の浅薄な知識をもってしても、以上の議論には、いくつか大きな誤りがあることが分かる。

たとえば、カトリックについて、

イエス・キリストは神ではなく、神の子

と述べられているが、これはカトリックを含む主流キリスト教の教義とは一致しないのではなかろうか。

三位一体の教義では、父・子・聖霊は区別される三つの位格でありながら、一つの神である。イエス・キリストは「神の子」であると同時に、真の神であり、真の人であるとされる。

もちろん、信徒であることと、所属する宗教の教義を正確に説明できることは別である。

私だって日本人だが、日本国憲法や神道や仏教について、いつでも正確に答えられるわけではない。

ただ、少なくともこの場で示された説明を「カトリックではそう教える」として受け取ることはできないだろう。

煉獄についても、

死んだあと煉獄で罪を悔い改めれば天国へ行ける

という説明ではない。

カトリックの公教要理では、煉獄の対象は、神の恵みと交わりのうちに死に、救いは確かでありながら、なお完全な浄化を必要とする者である。

いわば、地獄行きになった者が反省して行き先を覆す敗者復活会場ではなく、すでに救われる者に必要とされる最終的な浄化である。

また、

正教会には地獄がない

というのも正確ではない。

正教会では、天国と地獄を単純な地理的施設としてではなく、神の現前を人間がどのように経験するかという形で語る場合があるが、地獄そのものを存在しないことにしているわけではない。

さらに、カトリックを、

仏教でいう総本山、神道でいう総本宮にあたる大元

と表現するのも、歴史的にはかなり乱暴である。

カトリック教会が巨大で、教皇を頂点とする中央集権的な組織を持っていることと、正教会やプロテスタントを含むキリスト教全体の「総本山」であることは、まったく別の話だからである。

ここまでを見るだけでも、

キリスト教だから赦しを重んじ、仏教だから罰を重んじる

という議論を、このコメント欄から組み立てるのは極めて危ない。

仏教に赦しがない、という不思議

仏教側の理解も、かなり歪である。

仏教は罪に許しがなく、地獄で罰を受けて償う

というのは、いったい何を読んでそう判断したのだろうか。

少なくとも仏教教理における「業」は、唯一神や裁判官が罪人へ刑罰を言い渡す制度ではなく、行為と結果の因果として説明される。

したがって、これをそのまま近代刑法における「処罰」と同じ意味で理解すると、かなりずれる。

そして仏教には、懺悔も、功徳も、救済も、当たり前のように存在する。

日本仏教で分かりやすいところまで行けば、浄土教には、

罪深い人間だから救われない

ではなく、自力によってどうにもならない人間こそ、阿弥陀仏の本願の対象になるという思想まで現れる。

『歎異抄』第三条の有名な一節は、

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。

である。

ただし、ここでいう「悪人」を、現代の刑法上の犯罪者とそのまま同一視するのも危険である。

この言葉の力点は、「犯罪者の方が立派だ」という話ではない。

自らの善や修行を頼みにできると思う者より、自力ではどうにもならない自己を知り、他力に身を委ねるほかない者こそ、本願の正機であるという逆説である。

だから、

仏教文化だから、犯罪者を許さない日本になった

という因果関係は、相当に苦しい。

仮に宗教が刑罰観を一方的に決定するのであれば、同じキリスト教文化圏の刑事司法は、どこも似た姿になるはずである。

しかし現実には、同じ宗教的伝統を持つ社会の内部にも、アメリカと北欧はまるで違うし、厳罰を重んじる制度と、社会復帰を重んじる制度が併存している。

この時点で、宗教だけを独立変数にして説明する力は、相当弱いと言える。

刑罰観は宗教だけでなく、政治制度、犯罪情勢、報道、被害者支援、警察・司法への信頼、社会保障、刑務所の歴史など、多くの要素によって形作られるのだろう。

「赦す」「更生させる」「免責する」は別である

このコメント欄の議論で一番大事なのは、

赦すことと、更生させることを分けること

だと思う。

さらに言えば、

  • 被害者が個人的に加害者を赦すこと
  • 国家が法的責任を免除すること
  • 刑罰を受ける人間を更生させること

は、三つとも別の話である。

被害者が、加害者を赦す必要などない。

国家が、犯した行為を軽く扱う必要もない。

刑を免除する必要もない。

それでも、

この人間が二度と被害者を生まないようにする

ための働きかけはできるだろう。

むしろ、それを放棄して、

十分に苦しませたから、それでよい。

と終わる方が、刑期を終えた人間をいつか社会へ戻す制度である以上、社会防衛として、はっきりいって妙ではないかと思う。

「犯罪者に猫を与えるなんて甘い」と見るか。

「猫一匹によって、人間一人の再犯可能性が下がるなら安い」と見るか。

その違いには、刑罰の目的を何だと考えているかが、かなり露出する。

刑罰とは、罪に対して一定の不利益を科す制度である。

しかし、苦痛を最大化する競技ではない。

刑務所に入れたうえで教育を受けさせても、治療をしても、技能を学ばせても、猫の世話をさせても、自由を奪われているという刑罰そのものが消えるわけではない。

抽象化する者の強さと弱さ

これは敢えての余談だが、制度について考える仕事をする人は、個別の感情から一段距離を取り、全体の損得を見る訓練を受けやすい。

弁護士、裁判官、研究者、行政官などは、目の前の一件だけでなく、

  • 誤判
  • 再犯
  • 制度の濫用
  • 例外事例
  • 将来の類似事件

まで含めて考えなければならない。

そのため、結果として、更生、人権、手続保障を重視する立場へ寄りやすいことはあるだろう。

これは必ずしも、

犯罪者に優しい思想へ染まった

という話ではない。

ただし、その思考様式には明確な弱点がある。

抽象化すればするほど、

実際に自分の子を殺された人間が、そこにいる。

という事実の重さが薄くなる。

理屈としてどれだけ整っていても、聞く側からは、

被害者の痛みを、変数の一個として処理していないか。

と見えることがある。これが昨今の世論のブームではなかろうか。

片方は制度について話し、もう片方は道徳的な応報について話している。

同じ「犯罪者をどうするか」という日本語を使うため口論になるが、実際には、問いそのものが違っているのだ。

被害者感情は、制度設計の最終回答ではない。

しかし、無視してよいノイズでもない。

家族を殺されても、同じことを言えるのか

死刑論は、この違いが極端に現れる題目だろう。

あなたの家族が殺されても、死刑廃止と言えるのか。

という問いは、感情について考える問いとしては、ものすごく強い。

私自身、仮に大切な存在を残虐に殺された状況を想像すれば、

殺した人間には死んでほしい。
できることなら、自分の手で報いたい。

と思う可能性は十分にある。

しかし、

私は犯人に死んでほしい。

という命題と、

したがって、国家には人間を殺す制度を持たせるべきである。

という命題は、一段別であると思っている。

ここを切り分けられるかどうかは大きい。

極端に言えば、同じ人間が、

妻を殺した犯人には死んでほしい。

と思いながら、

それでも死刑制度そのものには反対する。

と言っても、論理矛盾ではない。

前者は当事者としての感情であり、後者は市民として国家制度を設計するときの判断だからである。

反対側も同じで、

被害者感情など、刑事政策の根拠にはならない。

と完全に切り捨てるのも、明らかに違うと思う。

刑罰には社会防衛だけでなく、

これほど重大な害悪を、社会は断固として否定する。

という応報的、表出的な機能もあるはずだからだ。

「身内を殺されても同じことが言えるのか」という思考実験を制度判断の最終回答にするなら、反対方向にも、

死刑となった人間が冤罪で、それが自分の身内だったらどうするのか。

という思考実験が成立する。

どちらも強烈である。

だが、両方が強烈だからこそ、結局、

自分がどちらの当事者になるか。

という想像だけでは、制度を決めることはできない。

そこから先にこそ、法や政治や刑事政策という、素人の私に最終解が分かろうはずもない仕事がある。

刑罰は、一つの目的では説明できない

私は、刑罰というものを、一つの目的だけで説明しようとすること自体に無理があると思っている。

応報も必要である。

危険な人間の隔離も必要である。

犯罪の抑止も考えなければならない。

更生も必要である。

被害者への支援と配慮も必要である。

冤罪や国家権力の暴走も防がなければならない。

これらは、普通に同時存在する。

受刑者に猫を世話させたからといって、懲役刑が消えるわけでも、犯罪歴が消えるわけでも、被害者に「許せ」と要求することになるわけでもない。

刑務所へ入れるという処罰を科したまま、その内部で更生を試みているだけである。

「刑務所なのだから苦しませなければ意味がない」というところまで進むと、刑罰の目的は、いつの間にか、

社会を安全にすること

ではなく、

犯罪者が苦痛を感じること

そのものへ変わってしまう。

それは応報というより、苦痛の消費ではないかと思う。

猫は道具ではない

そして、ここまで人間側の事情ばかりを書いてきたが、この問題には、もう一人――正確にはもう一匹――当事者がいる。

猫である。語感的に、笑い話に聞こえてしまうのは承知のうえである。

仮に動物介在プログラムが受刑者の情緒や責任感を改善するとしても、猫を人間の更生のための道具として乱雑に扱ってよいことにはならない。

猫にも個体差がある。

人間との接触を好む猫もいれば、強いストレスを感じる猫もいる。

参加者の選定、監督、獣医療、猫が逃げ込める場所、接触を拒める環境が用意されていなければ、更生の名のもとで別の弱い存在へ負担を押しつけることになる。

したがって、この種の制度を評価する際には、

受刑者に効果があるか。

だけでなく、

動物の福祉が守られているか。

も同時に問わなければならない。

猫は教材でも、褒美でもない。

生き物である。

受刑者に他者への配慮を学ばせるための制度が、その猫への配慮を欠いているなら、ずいぶん悪い冗談になってしまう。

冷たい計算からも、更生へ到達できる

実利だけで言えば、もっと冷酷な計算もできる。

仮に、動物飼育プログラムに一人あたり年間三十万円かかるとする。

そして、それによって一件でも再犯を防げるのであれば、次の被害者が受ける身体的・精神的・財産的損害、警察、裁判、収監に要する費用まで考えれば、ずいぶん安い可能性がある。

犯罪者を幸せにしてやろう。

という博愛思想を一切持っていなくても、

次の被害者を作らないために、猫を抱かせろ。

という結論には到達できる。

更生は、左派の専売特許でもなければ、犯罪者への無条件の慈愛でもない。

秩序、安全、財政、被害防止を重視する、かなり保守的な発想からでも、更生の必要性は導ける。

右か左かというラベルだけでは、案外説明できないところである。

一つの価値だけで、世界を説明しない

一つの価値だけで世界を説明しない。

そういう態度を、私は持つべきだと思う。

犯罪者に怒ってよい。

被害者へ共感してよい。

犯した行為に相応の責任を取らせてもよい。

そのうえで、次の被害者を作らないためなら、教育もする。治療もする。仕事も教える。

猫も抱かせる。

これらが同じ頭の中に存在しても、ぜんぜんおかしくない。

むしろ私は、その方が人間というものを、かなり正確に扱っているような気さえする。


参考

  • 『カトリック教会のカテキズム』三位一体、キリストの神性と人性、煉獄に関する項目。
  • Orthodox Church in America, “Heaven and Hell” ほか。
  • 『歎異抄』第三章。
  • 法務省「再犯防止対策」「再犯の防止等の推進に関する法律の施行について」。
  • Duindam et al., “Are We Barking Up the Right Tree?” および動物介在プログラムに関する系統的レビュー。

この記事を書いた人

Coffee&Liquor AseeK

ただの猫と歴史好きです。
昼はエンジニアの真似事、夜はバーテンダーの猿真似をしています。
たまに物書きの人真似をします。